佐久間結衣「コンプレックス・エイジ」を読んだ.個人的に大当たりの作品だった.以下書評を述べる.

 

主人公の凪はコスプレ大好きな女性.Wikipediaいわくは,「26歳のコスプレイヤーの女性を主人公に、コスプレという趣味に生きることの意味と困難、喜びを描く作品。」とのことだが,私はこの作品の説明としては相応しく無いと思っている.

最初に言う.この作品は,類稀な才能に振り回される狂人の物語である.コスプレという形態を取っているだけで,人よりも得意な何かを,何かの間違いでとことん突き詰めようとした人間が必ずぶち当たる出来事を詰め込んだ作品だ.

「ふつう」の人たちは,得意な何かを突き詰めることをどこかですんなり諦め,そこに面白い物語を作るまでには至らない.だが,凪は狂っている.ほとんどいたるところで狂っている.狂っていないところを見出すほうが難しい.その歯車のズレを描いたのがこの作品だと言うべきだと思っている.

 

彼女はコスプレイヤーとして,まずずば抜けて優秀な才能を持っていた*1.優秀な才能のみならず,それを磨く方法も身につけ,他人を差し置けるほどになった.これが公子との対比になっている.公子は優れたコスプレイヤーだったに違いない.だが,凪ほど抜きん出ていなかった.一線を越えられていなかった.このことが,公子の路線変更を踏み切る理由になる.凪に比べれば,諦めが付くのはある意味で当然の帰結だ.

ところが凪はそう簡単には諦められない.勿論凪は,綾を自らと比した時に,綾の自分以上の可能性と,自らの限界を直ぐに見抜いた*2.だが,他人との単純な比較を理由に自らを説得できるほど,彼女の才能は中途半端ではなかった.ここで引き下がれるほど,凪の才能はありふれたものではなかったのだ.

 

そして更に彼女の狂気に拍車をかけているのがその攻撃的なまでの完璧主義である.彼女はコスプレに妥協しない.普通の人間だったら,苦しいと思って諦めるところでも,彼女はそうしない.できない.

しかも,本人はそれを当然のことだと思い,他人に対しても当たり前のように要求する*3.葉山に対する厳しい言葉や,りうとの食事シーンに端的にあらわれているだろう.勿論,厳しい言葉を吐いたあとの凪が後悔している描写はある.だけれども,それは彼女が社会を生きてきた結果,あとからついてきた副作用であることを強調する結果にしかなっていない.最も彼女が綺麗なのは,輝いているのは,自身の本音を出しているのは,「ふつう」から見たら病的とも思えるような,厳しい姿勢を自他共課しているその瞬間であるという印象を受けた.

 

好きは呪いだ.好きなことを仕事にするのは覚悟がいる.よく言われる言葉だが,この言葉を,才能に満ちた狂人たちに喋らせているのが上手いと思う.ここでいう「好き」はlikeではないのだ.loveでもまだぬるすぎる.だから,ふつうの人に喋らせちゃいけない.彼らは「好き」をわかっていないから.

凪が自分の中の「好き」という狂気と向き合い,一定の答えを出すところで物語は終わる.一見するとただの路線変更に見えるかもしれないが,凪の答えはそうではないと私は思っている.自身のおぞましいまでの才能を直接使い潰すことに,人生の大半を費やす,というのが彼女の選択である.主体的に,趣味を,好きを,狂気のまま育て上げる道を選んだのは(典子を除けば)彼女だけである.

やや強引な意見になるが,彼女が衣装を着るかどうかの答えをぼかしたことは,私はありきたりなものではないと思っている.コスプレを諦めて路線を変えたのではない.本質的に何処かで自身のルーツを変えきれていない,変えきれるほどまともになれない.それが彼女の生き様だ.

 

規格外,がこの作品のテーマかもしれない.凪が主人公足りえるのは,そして私にとってこの物語が興奮を引き起こすのは,その規格外性を措いて他にないと思えるからだ.

*1:ぼちぼち,とか,まぁまぁ,とか,かなり,じゃダメ.ずば抜けて,であることが重要なのだ.

*2:この,自他の才能を直ちに正確に見抜く力も,彼女の能力の1つである.なんどでも言うが何かがおかしい.様々な才覚に恵まれすぎている.

*3:不適合だと言うべきなのかもしれないが,私は彼女に対してそんな言葉を使いたくない.